租税法学会第50回記念総会の記念講演(宮崎裕子前最高裁判事)の聴講メモ

争訟

令和3年10月16日(土)、租税法学会第50回記念総会において、前最高裁判事の宮崎裕子弁護士による「弁護士の専門化と最高裁」と題する講演がありました。非会員でもオブザーバーとして聴講可能ということでYoutubeで聴講しましたが、その講演内容を備忘録としてまとめてみました。

※ この講演録は、租税法研究第50号「租税法の過去・現在・未来」に掲載されています。

時代の変化が激しいにもかかわらず極めて変化が少ない最高裁

  •  扱う事件は日々変化し、それを処理する裁判官・調査官もどんどん交代しているにもかかわらず、それを処理するインフラの基本骨格がほとんど変わっていない。
  •  最高裁の取扱事件数は全体として減少傾向ではあるが、各裁判官は年間3~4千件処理。上告受理制度は導入されたものの、米国流の裁量上告制度的運用までには至っていないこともあって、大量事件処理のためのシステムを変えることができていない。
  •  判事が使用するPCは、判例検索はできるものの、ネットの利用が極端に制限されているため、ネット環境が極めてお粗末。
  •  最高裁では、伝統的に各小法廷ごとに文化があり、構成裁判官が変わっても第三小法廷の場合は、「主任裁判官だけでなく、各裁判官はもかなり長いメモを書いて回している」、「審議時間がかなり長い」、「不受理とされる持ち回り事件すら頻繁にメモを書いて回す慣例がある」、「持ち回り事件の決裁が三つの小法廷の中で一番長い」という文化があった。小法廷文化が長期にわたって継承されているということも、最高裁が変わっていないと感じる理由の一つ。
  •  緊急事態宣言時に、多くの手続きを止めざるを得なくなったという経験をしたことは、最高裁の業務のIT化の遅れを全員に痛感させることになり、試行段階であった一部地裁における第一審民事訴訟準備手続のオンライン化の導入に弾みがついた点は特筆に値するかもしれない。
  •  世間のIT化の流れに最高裁がキャッチアップするには相当な時間がかかるような気がする。

最高裁民事事件の口頭弁論活性化の試み

  •  最高裁における民事事件の口頭弁論は、藤田宙靖元判事の著書には「殆ど陳腐ともいうべき儀式であるに過ぎない」と書かれているとおり、形式主義の極みであった。
  •  自分が初めて裁判長勤めた事件の口頭弁論期日では、前もって作られた厳格なシナリオどおりに進められ、あっという間に終わった。
  •  口頭弁論を活性化すべきという問題意識自体は昔からあったが、実際には何も変わらないまま不動のものとして続けられてきた。しかしながら、裁判員制度が定着して、裁判所も検事も弁護士も口頭弁論を口頭でやるメリットを感じマインドが生まれてきた。
  •  刑事裁判官としてのキャリアが長い大谷最高裁長官は、民事事件の口頭弁論活性化にも意欲をかなり持っていて、主要国の裁判所の口頭弁論の実際について、数名の調査官を出張・調査させて、裁判官会議で報告させたりレポートを書かせたり、小法廷ごとに活性化の在り方・進め方について裁判官の間で議論をする機会を設けたり、前裁判官の中で議論をする機会を設けるなどイニシアティブを執っていた。
  •  裁判官の間では、最高裁における民事事件の口頭弁論の活性化思考が植え付けられた感がある。その結果として、最高裁HPに口頭弁論が開かれる事件の概要をアップして国民が事前に事件の概要を知ることができるようにしたり、その事件の概要を傍聴人に配布したり、原審を破棄せずに上告棄却の判決をする場合にも口頭弁論を開くことを現実的に検討するようになったりした。また、第三小法廷においては、口頭弁論の前に期日外釈明を行って、口頭弁論において釈明された論点について論じるように仕向けたり、期日外釈明を行わない場合であっても、口頭弁論期日において追加質問を予告なしに行うといった運用を試行していた。
  •  自分が裁判長を務めた事件では、事前に開示した説明図を使って、口頭弁論において争点が何かということを丁寧に確認したり、上告人代理人に予告なしに質問をしたが、上告人代理人の答えぶりは実に見事なものであり、聴きながら首を縦に振りそうになった。
  •  法廷が閉廷した後、裁判官控室で、裁判官5人が法服を脱ぎながら、「実にいい口頭弁論だった」「口頭弁論らしい口頭弁論であり審議にも非常に有益であった」と感想を述べあった。司法記者からも傍聴人に分かりやすかったというコメントが広報に寄せられた。
  •  今後も少なくとも第三小法廷では、このような路線での口頭弁論活性化の試みが、事件を選んでということにはなるが続けられるのではないか。

タックスロイヤーが最高裁に入って感じたこと

  •  自分が最高裁判事に任命された際には、企業を主たる依頼者とする大規模法律事務所出身のタックスローヤーが民事全般、会社訴訟、家事、知財、労働、行政事件、刑事、憲法事件と何でもありの最高裁の裁判官になったという点に意外感をもった実務家はは少なくなかったような気がする。
  •  外部の弁護士や修習生などから、租税事件が専門だったという経歴から、様々な事件を扱わなければならない最高裁判事の任官は相当大変だったんじゃないか、違和感はなかったかという質問をほぼ例外なく受けた。
  •  学者出身の最高裁判事は、弁護士以上に明確な専門分野を持っているのが普通だし、キャリア裁判官出身の裁判官の場合ですら、民事か刑事かに経歴が大きく分かれているのが普通。また、弁護士出身の最高裁判事が全員オールラウンダーであったかというとそういうことでもなくて、労働事件、倒産事件、金融証券取引関係というような専門あるいは得意分野を持っていた方は多かったことからすると、専門分野がある弁護士だったというだけで特別なことはないと言ってよさそう。
  •  税とか租税法というと、それだけで労働や倒産と違って、漠然とした一般認識としては、私法は異なる極めて特殊な分野であると見られているのかもしれないが、自分は弁護士時代から租税法がそのような意味で特殊であると思ったことはない。
  •  税法の条文を読み解くことが、他の法律の解釈と全く異なる営みであるというわけではないし、文理だけではなく趣旨とか論理等を様々な角度から考えて、法律を解釈適用するという基本は、他の法律分野の場合と同じであるのは言うまでもないと思っていた。
  •  確かに、租税法には租税法特有の概念とか考え方があることは否定できないが、そのようなことは他の法律分野にも当然あるわけで、それがあるからといって課税の対象である経済取引等に関する私法的な分析や理解が不要になるというものでもないし、それがあるからといって法律の解釈手法が本質的に異なるというものでもない。
  •  税務訴訟では、他の民事行政訴訟と同じく、事実認定と法令の解釈適用というのが車の両輪であり、それを踏まえた上で訴訟手続きを進めなければならないわけなので、手続的には一般民事訴訟にはない側面があるとしても、事実認定と法令の解釈適用という点においては、通常民事訴訟比べて特殊な作業が訴訟においていつも要求されているというわけでもない。
  •  弁護士時代には全く扱ったことのない法律や法律問題にも多数関与したが、その場合には適応すべき法律について学ぶべきところはしっかり学んだ上で、あとは裁判官として良心に従って自分の頭で判断するということが求められているということなので、自分としては最高裁の仕事に違和感を持つということもなかった。
  •  結局のところ、租税法に限らずどの法律分野を専門領域している弁護士であっても、特定の分野の実務を専門にやっていた弁護士であるという言うだけの理由で、最高裁判事として適性がないということにはならないことは確信を持って言える。
  •  それぞれの最高裁判事が異なるキャリアを持っていて、異なる専門性を持ち、そういう意味で裁判官に多様性があることは、最高裁における議論と判断をより短時間でより深いところまでえぐりだす契機を個々の裁判官が持っているということだと思うが、これは最高裁にとってはアセットと言うべきであって、判例形成に大きく貢献するものであるということは間違いない。

専門性を持つ弁護士が訴訟を行う意義

  •  最高裁の側から見たときに、ある事件の上告受理申立てを受理するかどうかを考える際には、そこで問題とされる法律問題について、原審までにおいて十分な主張立証がなされているかが重要。この考慮においては、専門性のある弁護士が代理人になっていることというのは、最高裁が上告を受理するかどうかの判断をするにあたって実は大きな意義があると思った。
  •  専門性を持った代理人が担当していることによって、事件で想定となっている法律問題について原審までで主張立証が尽くされていて、その訴訟の中で判断に熟する状態になっていることについて、最高裁としては安心感が持てる。自分も実際にいくつかの事件でそれを実感した。
  •  代理人が必ずしもその分野に精通していない場合には、原審段階で十分な主張立証がなされないまま判断がなされるということも起きるわけで、そうなると原審での審理では論点が十分にあぶり出されず、事実認定も不十分なものしかできずということで、原審がそのまま結論を出してしまうということも起きてしまう。
  •  裁判所には釈明義務があるのに、それを尽くしていないではないかという主張を上告受理申立てで主張することはできるのかもしれないが、弁論主義との関係もあって常にそう考えるわけではないので、やはり専門性のある弁護士が訴訟代理人であることには、争点を正面から取り上げた審理を一審から行って、原審の事実認定が行われ判断がなされるというプロセスを担保し、上告受理の可能性も高めるというメリットがあることは間違いないところではないか。
  •  自分の任期中に関与した判決の中には、税法がらみの事件はいくつかあったが、判決を出した事件数から見る極めて少なかったことは、実は結構残念であった。
  •  租税関係事件については、個人的にはその原因をきっちりと突き止めたいという気持ちが結構強くて、通常の持回り事件よりも時間をかけて検討するようにもしていたし、ちょっとでも引っかかるところがあるかもしれないと思った時は、他の4人の裁判官に声をかけて議論をすることも何回もやった。
  •  租税関係事件では、納税者側に相当な不満、場合によっては課税当局に対する怒りがあるであろうことは容易に想像できるものが結構多いが、最高裁としてはいかんともし難いとものばかりというのが結論で、その上告を受理する余地がない事件の割合が、想像していたよりもはるかに多いというのが正直な印象。
  •  気になった事件として、複数の租税法の条文の関係性をどう捉えるかということが問題になるものがあったが、条文の関係性が極めて難解で、納税者が為すべき主張しないまま原審で敗訴したという事案だった。それについては調査官に命じて、何か書いてる人いないのかっていうようなことで探してもらい、自分でも探してみたが、何も見つからなかった。弁論主義という訴訟のルールがあることを考えると、こういう事件で納税者からの上告受理申立てを受理するのは実は非常に困難。
  •  特に地方税の場合には、課税当局の事務過誤に起因する不服を持つ納税者が提起した国賠訴訟とかが結構あるが、そのような事務過誤は外からは見えないので、納税者から証拠を提出することは極めて難しい。また、気付いた時には課税処分を直接争えない状況になっていて国賠しかできず、国賠だと立証の面で納税者の勝つのは極めて難しいが、このような問題は最高裁に来られても為す術がないと言わざるを得ない。

判例形成と学説の役割

  •  伊藤正己元判事も藤田宙靖元判事も、裁判官は個別の紛争の最も適正な解決を目指して、その判断過程で法律の解釈をするので、学者のアプローチや思考経路に違いがあるという趣旨のことをおっしゃっていたが、自分も裁判官の思考経路については全くそのとおりだと思う。
  •  裁判官はその思考の過程において、他への影響や実務で長く行われていることを覆すことの影響を慎重に考えて、国会の立法裁量の広さなども考慮するということになるが、このことは課税庁の実務を納税者が争うという図式になる税務訴訟の判断においては非常に問題になりやすい。
  •  これに対して、弁護士の思考経路というのは、個別事件の適正な解決を目指すという点では、裁判官と似たところがあるが、弁護士は依頼者目線での適正な紛争解決を課題と考えるので、依頼者の観点から見て目の前の争いが適正に解決されれば、他への影響を気にする度合いは裁判官よりはずっと低い。長い間行われてきたことを覆す目的で、訴訟を起こすことすら弁護士の方はあるわけなので、覆すことへの抵抗感低いというふうに言えるのだろう。
  •  税務訴訟での経験ではないが他のタイプの訴訟で、特にキャリア裁判官出身裁判官と比べると、他への影響を気にすべきか、長い間行われてきたことを覆すことに慎重になるべきか、立法裁量の広さについての感覚などに温度差があると感じさせられたことが少なからずあった。
  •  他への影響や立法裁量の広さとかを考える以前の段階の事件については、租税法の立法裁量が広いということがあるのであれば一層のこと、立法の質を上げて問題を起こしにくくすることがもっと試行されてよいのではないか。また、もし長く続いたことを覆すことに裁判所が慎重にならざるを得ないということがあるのであれば、不都合な立法が長く続かないようにする努力を立法はタイムリーにすべきではないかということを結構強く思った。
  •  分かりやすい立法を随時進めることによって立法の質が高まれば、納税者の不満が起きる原因は相当程度取り除かれ、裁判所では限界がある事案が減る可能性があるのではないか。
  •  各裁判官が個別の事件の審議において、特定の学説を根拠に自分の意見を展開するということは極めて稀。その理由を考えてみると、多数の先輩退官者の方々も述べておられるように、裁判官は裁判というものの性質上、基本的に目の前の事案について、事実認定された事実を前提に、そこにある具体的な紛争の適正な解決を目指して、裁判官としては、それぞれが良心に従って個々の条文の解釈適用について考え、自分の意見を述べるという姿勢を徹底しているということから、そもそも自分の意見が学説と同じかどうかとか、個別の事実関係に馴染まない学説に依拠できるかどうかという発想を持っていないからではないか。
  •  裁判官としての経験に照らして言うならば、裁判官が考える過程において、個々の条文の文理解釈のレベルよりは、むしろ関係法律の体型を見据えた大局的な観点から、問題の所在についての立体的・俯瞰的な視点を与えてくれるような学説から、考え方のヒントをもらうことを期待することは結構少なくない。そこでもらうヒントは、具体的な事件処理にあたっての自分の考え方とか、解釈を整理し、検証するためにも有用だし、自分の考え方を作り上げ得るためにも大いに価値があると思う。